海賊と侍
プロジェクトについて
歴史的な出会いに関わったオーストラリアの漂流者と徳島藩士
2017年、日本在住の歴史家ニコラス・ラッセル氏は、「mutiny 1829(1829年の反乱)」という単純なGoogle検索をきっかけに、約2年間に及ぶ研究の答えを見つけ出し、世界的な注目を集めました。1830年1月に徳島沿岸に現れた謎の外国船の正体は、1829年にタスマニアの流刑囚たちにより奪取された植民地輸送船「キプロス号」 だったのです。ラッセル氏は「その二つの点をつないだ瞬間、キプロス号にたどり着いた」と振り返ります。
キプロス号が日本に到着したのは、幕府が鎖国政策(1635年〜1853年)をさらに強化し、「異国船打払令」を発した5年後のことでした。1808年、オランダ船を装ったイギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入したフェートン号事件では、対応の不手際を負わされた日本の役人が切腹する事態となりました。その後、ゴローニン事件 、宝島事件、大津浜事件が続き複数の異国船の接近が引き金となり、打払令が出されました。
しかしそのような厳しい状況にもかかわらず、徳島の人々はキプロス号の船員たちの求めに応じ、薪や水を提供し、船の修理の時間を与えました。
最終的にキプロス号は12日間の滞在の後、侍たちによって追い返されましたが、この出来事は死者を出すことのない比較的平和な接触となりました。
歴史的意義
「ペリーの黒船による砲艦外交が日本に米国との通商を強いた24年前、オーストラリアの漂流者と日本の侍は、敬意と理解をもって出会ったのです」とストーン氏は語ります。この出来事は、国の違いを超えて、日本とオーストラリアの二国間関係の強さを証明する永続的な証となっていることを、あらためて情報発信していくものです。